徳洲新聞2023年(令和5年)01/04水曜日 NO.1371より
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黎明期 1973年~ 徳田・名誉理事長の原体験が原動力 大阪から各地へ病院建設
徳洲会グループの歴史は1973年1月に始まった。グループ第1号の病院は大阪府の徳田病院(現・松原徳洲会病院)。60床の規模ながら「年中無休、24時間オープン」、「断らない医療」を掲げ、とくに救急医療の実践に腐心した。
今でこそ救急医療に積極的な医療機関は珍しくないが、当時は国内の救急医療体制が整っておらず、救急医療を担う部門は不採算。赤字経営から救急医療を取りやめる公立病院も多く見られた。
徳洲会創設者の徳田虎雄・名誉理事長は幼少期、故郷である鹿児島県の離島、徳之島で夜間に発病した弟のため、医師に往診を依頼するも応じてもらえず、翌日、弟を亡くした。この体験から自ら医師になることを決意。困っている方のため、最善の医療が受けられる病院を全国につくることを誓った。徳洲会の“生命だけは平等だ”の理念、「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」を目指すという大方針は、創設者の怒りや悲しみが原点となっている。
徳田病院の運営は決して順風満帆ではなかったが、懸命に救急医療を実践する職員らの姿に、徐々に協力者が参集。75年に地元住民の要請をもとに、2病院目となる野崎病院(現・野崎徳洲会病院)を大阪府に開設した。201床と徳田病院よりも規模が大きく充実した救急医療体制を敷いたこともあり、ひっきりなしに救急患者さんに対応。時には奈良県から搬送されるケースも見られた。その後、同じように救急医療で困っている大阪府の地域に、77年に岸和田徳洲会病院、78年には八尾徳洲会病院(現・八尾徳洲会総合病院)を開設した。
同時期、他の府県からも病院開設の要望があり、79年、沖縄県に南部徳洲会病院、福岡県に福岡徳洲会病院、京都府に宇治徳洲会病院を開設。翌80年には関東に進出。神奈川県に茅ヶ崎徳洲会病院(現・湘南藤沢徳洲会病院)を設けた。
だが、必ずしもスムーズに事が運んだわけではない。人材確保など病院運営に直接関係する課題もあったが、とくに障壁となったのが医師会との軋轢だ。各地の医師会は徳洲会に対し、強硬に反対運動を展開。茅ヶ崎病院のケースでは、“茅ヶ崎戦争”とも言われた。
しかし、開院を求める地域住民の熱心な活動や、当時の日本医師会会長が徳洲会の活動に一定の理解を示し、次第に軋轢は解消された。現在は徳洲会病院の4分の3以上が医師会に加入するなど、多くの地域で良い関係を築いている。
その後、81年に大和徳洲会病院(神奈川県)、83年には北海道のグループ病院として札幌徳洲会病院がオープンした。また、地域住民によって82年に設立した埼玉医療生活協同組合に徳洲会が全面協力し、83年に羽生病院(現・羽生総合病院)が誕生した。
第1号の徳田病院(現・松原徳洲会病院)。徳田・名誉理事長が自らの生命保険を担保に建設資金捻出
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